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Tubuyaku

つぶやきです。

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娯楽


        娯楽について
      
 生活を楽しむことを知らねばならぬ。「生活術」というのはそれ以外のものでない。それは
技術であり、徳である。

 娯楽という観念は恐らく近代的な観念である。それは機械技術の時代の産物であり、この
時代のあらゆる特徴を具えている。娯楽というものは生活を楽しむことを知らなくなった人間
がその代わりに考え出したものである。それは幸福に対する近代的な代用品である。幸福につ
いてほんとに考えることを知らない近代人は娯楽について考える。

 生活と娯楽とは区別されながら一つのものである。それらを抽象的に対立させるところか
ら、娯楽についての、また生活についての、種々の間違った観念が生じている。

 娯楽が生活になり生活が娯楽にならなければならない。生活と娯楽とが人格的統一に齎さ
れることが必要である。生活を楽しむということ、従って幸福ということがその際根本の観念で
なければならぬ。

  娯楽は衛生である。ただ、それは身体の衛生であるのみでなく、精神の衛生でもなければ
ならぬ。そして身体の衛生が血液の運行を善くすることにある如く、精神の衛生は観念の運行
を善くすることにある。凝結した観念が今日かくも多いということは、娯楽の意義とその方法が
ほんとに理解されていない証拠である。



      『人生論ノート』 三木 清  新潮文庫
      
 近代的リゴリズムから抜けられないで、しなやかで滞ることのない思考がすくないのは今も同じか。





  
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利己主義


         利己主義について
      
  一般に我々の生活を支配しているのはgive and takeの原則である。そんれ故に
 純粋な利己主義というものは全く存在しないか或いは極めて稀である。
 
  我々の生活は一般にギヴ・アンド・テイクの原則に従っていると言えばたいていの者
 がなにほどかは反感を覚えるであろう。そのことは人生において実証的であることが
 如何に困難であるかを示している。利己主義というものですら、殆どすべてが想像上の
 ものである。しかも利己主義者である要件は、想像力をもたぬということである。
 
  利己主義者が非情に思われるのは、彼に愛情とか同情とかがないためであるよりも、
 彼に想像力がないためである。そのように想像力は人生にとって根本的なものである。
 人間は理性によってというより想像力によって動物から区別される。愛情ですら、想像力
 なくして何物であるか。
 
  我々の生活を支配するギヴ・アンド・テイクの原則は、期待の原則である。
  
  我々の生活は期待の上になり立っている。
  
  すべての人間が利己的であるということを前提にした社会契約説は、想像力のない合理
 主義の産物である。社会の基礎は契約でなくて期待である。社会は期待の魔術的な拘束力
 の上に建てられた建物である。
 
  利己主義という言葉は殆どつねに他人を攻撃するために使われる。主義というものは
    自分で称するよりも反対者から押し附けられるものであるということの最も日常的な例
    がここにある。

  

         『人生論ノート』 三木 清  新潮文庫
         
   想像力が重要だということはよく分かるような気がするが、想像力を身につける為には
  なにが必要であろうか。



秩序


       秩序について
     
  外見上極めてよく整理されているもの必ずしも秩序あるものでなく、むしろ
 一見無秩序に見えるところに却って秩序が存在するのである。この場合秩序
 というものが、心の秩序に関係していることは明らかである。どのような外的
 秩序も心の秩序に合致しない限り真の秩序ではない。心の秩序を度外視
 してどのように外面の秩序を整えたにしても空疎である。 

  秩序は生命あらしめる原理である。そこにはつねに温かさがなければならぬ。
 ひとは温かさによって生命の存在を感じる。
 
  また、秩序は充実させるものでなければならぬ。単に切り捨てたり取り払ったり
 するだけで秩序ができるものではない。虚無は明らかに秩序とは反対のものである。
 
  知識だけでは足りない、能力が問題である。能力は技術と言い換えることができる。
 秩序は、心の秩序に関しても、技術の問題である。
 
  プラトンの中でソクラテスは、徳は心の秩序であるといっている。これよりも具体的で
 実証的な徳の定義を私は知らない。今日最も忘れられているのは徳のこのような考え
 方である。

  

   『人生論ノート』 三木 清  新潮文庫
  
  何でも簡単に目の前から邪魔と思われるものをとりはらい、秩序付けたように思う風潮は
 真の意味で秩序及びそれに必要な技術を尊重していない現れではないか。 






 

仮説

        仮説について

 思想が何であるかは、これを生活に対して考えてみると明瞭になるであろう。
生活は事実である、どこまでも経験的なものである。それに対して思想にはつねに
仮説的なところがある。仮説的なところがないような思想は思想とはいわれな
いであろう。思想が純粋に思想としてもっている力は仮説の力である。思想はそ
の仮説の大いさに従って偉大である。

 仮定的に考えるということは論理的に考えるということと単純に同じではない。
仮説は或る意味で理論よりも根源的であり、論理はむしろそこから出てくる。論理
そのものが一つの仮説であるということもできるであろう。仮説は自分自身から論理
を作り出す力をさえもっている。

 すべて確実なものは不確実なものから出てくるのであって、その逆ではないという
ことは、深く考うべきことである。つまり確実なものは与えられたものでなくて形成され
るものであり、仮説はこの形成的な力である。認識は模写でなく形成である。精神は
芸術家であり、鏡ではない。

 常識を思想から区別する最も重要な特徴は、常識には仮説的なところがないという事である。



                『人生論ノート』 三木 清  新潮文庫



  人間の行為・行動と独立した客観的認識・客体というものは存在しないということか。
 

     

雨 2

"
      
  つくづくと独(ひと)りきく夜の雨の音(ね)は降りをやむさへ寂(さび)しかりけり

                 儀子内親王(ぎしないしんのう)
"
         『続 折々のうた』 大岡 信 岩波新書 

   
  雨の音でも聞こえないより、聞こえたほうが慰めになることもあろう。
 人間は、究極的に何もないことには耐えられないのかもしれない。




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